おしらせ

初詣について④

さて。
初詣の「作法」ですが、
スピリチュアリズムでは、「何事も動機、意図」といわれています。

日本古来から、
神様に対して「感謝」「畏敬の念」を抱いた上で行ってきた行動が、
積み重なり、形となって、現在の「作法」として定着していきました。

想像してみましょう。
あなた様が突然、非常に大きなショックな出来事に遭い、絶望感に満たされた時、
誰かに助けられたら?

心からの感謝がこみ上げてきませんか?
その時のあなた様は、どの様に体が動きますか?

私の場合は、
思わずひざまずき、頭を垂れ、自分の胸元で手を合わさずにはいられません。
誰に言われるまでもなく、自然にそうしてしまうでしょう。

そして、そこまで自分が「感謝」「畏敬の念」を抱いた方に対しては、
例えば、
①足を向けられない
②汚れた姿でお会いできない
③こんなに素晴らしい方なら、沢山の方々を助けているだろう、私を覚えてくれなんて思うのは私の独りよがりだ、お会いしたら私の事をご説明しよう

等々、心から大切に思い、いかにして感謝の意を伝え、
実際の所、いかにして敬う思いを形に表すか、細心の注意を払って行動するでしょう。

そういった、「感謝」「畏敬の念」からくる行動が、「作法」となったわけです。

従いまして、
「感謝」「畏敬の念」を抱いた上で行動することが、一番大切なのです。
だから、「これが作法だから、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない」と、
細かいことを気にしすぎる必要はありません。

神様は、
私達が失敗しても、間違えても、怒ったり、責めたり、罰を与えることはありません。

神様は私達が「学びのために」この世に降りてきたことをご存知です。
なぜなら、元はといえば、神様が作ったシステムなのですから。

そして、私達がこの世で失敗したり、間違えたりすることで、学び、進化向上発展することを神様はご存知なので、
私達が失敗しても、間違えても、怒ったり、責めたり、罰を与えることは無いのです。

「感謝」「畏敬の念」の元、
初詣に行きませんか。

初詣について⑤に続く