ずいぶん前のお話です。
無差別殺人で、何人もの方が犠牲になった事件がありました。
その犯人が何故、無差別殺人を行ったか。
自供によると、
「皆が私を責めて、殺しにくると思ったから、先に殺した」
何故、そう思ったかと尋ねると、
「皆が無表情だったから」
犯罪心理学として、当時の精神科医の分析によると、
「犯人の親が犯人をしかる時、無表情で叩いていたから、無表情の人間は、自分を叩く人、となってしまった」
という分析結果でした。
トラウマというのは、
この様に、様々な結果をもたらしてしまいます。
本来、親は、子どもを一番愛し、自己犠牲を払ってまでも子どもを尊重するものです。
そして、心理学的には、教育に感情は乗せず、教育は「愛情」でするものと言われています。
となると、親は感情にまかせて「怒り」という感情を子どもにぶつけてはいけないし、叩いたり、殴ったりしてはいけない、となります。
では、子どもが失敗をしたら、どうするか?
失敗をした時に、一番ショックを受けるのは、実は、子ども自身です。
ですので、「失敗は未熟だから当たり前」とし、まず、子どもを抱きしめ、慰めます。
そして、「二度と同じ失敗を繰り返さないためにはどうするか」親と子どもで一緒に考え、子どもがわかるまで、できるようになるまで、
何度も何度も、諦めず、根気強く説明をして、子どものサポートをし続けるのが、
本来の親の姿です。
それなのに、子どもが失敗した時に、
親から怒られ、怒鳴られ、殴られ、叩かれ、「できないのであれば、言うことをきかないのであれば出て行け」と、言われてしまった子どもがどうなってしまうか。
①心理学上、10才までの子どもにとって、親は、完全な存在です。
子どもにとって、「親は絶対に常に正しく、親は絶対に自分を愛している」と思っています。
そう思わないと、「自分の存在価値、存在理由」が揺らいでしまうからです。
「自分は親から愛されて、求められて生まれた」と思えないと、
「何故生まれた、生まれない方が良かったのか」と、自己破壊への思考に繋がってしまうので、
「親は絶対に常に正しく、親は絶対に自分を愛している」と、思いたいのです。
さて。
本来、一番自分を可愛がり、尊重してくれて当然の親が、
自分を怒り、殴り、出て行けと言う。
「親は絶対に常に正しく、親は絶対に自分を愛している」と、思いたい子どもは、
「それだけ、自分は価値のない人間。怒られて、殴られて当然の人間。」
と、子ども自身の人間としての尊厳が、めちゃめちゃに破壊されてしまいます。
自分自身は殴られて当然の、動物よりも下の存在になってしまいます。
ただただ未熟で、幼く、かわいい盛りの子どもに対して、
何という仕打ちでしょう。
本当にかわいそうでなりません。
実際には、親が子どもに対して「しつけ」と称して、間違った教育をしているのは明白です。
②そして、
「親は絶対に常に正しく、親は絶対に自分を愛している」と、思いたいので、
全人類の基本が、「親の姿」となります。
結果、冒頭に記載した事件ですが、
犯人は、
①「自分は怒られ、叱られ、叩かれ、殴られて当然の人間」と、
自分の尊厳が破壊されている方、となります。
従って、
「大切にしてくれるはずの親でさえも自分を殴ったから、見ず知らずの人にも殴られるかもしれない」という思考回路が成立します。
②親が無表情で殴ったから、全人類、「無表情=自分を殴る人」
となってしまったのです。
これは、犯人の犯罪を擁護するためのものではありません。
どんな理由があっても、人を叩いたり、殴ったり、怒鳴ったり、脅迫したり、殺したりすることは、
絶対にあってはならないのです。
それは親子であれ、兄弟であれ、師弟であれ、上司と部下であれ、赤の他人であれ、
絶対にハラスメントはあってはならないのです。
だからこそ、
当然、犯人も、してはならないことをしたのです。
被害者の方々は、何の罪もありません。
どんな理由でも、
どんな関係性にあっても、
暴力、殺人は、
あってはならないのです。